語り継ぎたい 明治・大正・昭和
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あのときはこうだった あの頃はこんなことしてた 豊川市内、現在、日本車両の工場のあるあたりを中心とするあの一帯が、およそ5万人が働く巨大軍事工場でした。豊川海軍工廠と呼ばれ、海軍が使う機関銃や大砲の砲丸を作っていたそうです。軍艦を作っていたわけではありません。現在、その中に名古屋大学の太陽を観測す大掛かりな研究施設があり、その一角に、当時の軍事工場がそのまま残っています。 毎年2月と8月に見学会が行われています。 豊橋空襲を語りつぐ会の 安間慎会長が愛知大にて自らの戦時体験を語る。あの悲劇を風化させまいとする、樫村愛子教授の授業の一環で70分 学徒動員で、青春時代の一幕を豊川海軍工廠で過ごしたユニークな中学生の工廠生活のお話です。 工商での暮らしはどんな風だったか、また、戦時中は、日本向けにアメリカのラジオ放送が聞けないように、名古屋から妨害電波を発していたようですが、この電波も、渥美半島の太平洋側には届かず、アメリカからの情報がこの地域では聞けたようです。赤羽根の友人から、空襲の情報を聞いて救われた人もいるようです。 海軍工廠には、地域から推薦された、女子挺身隊と呼ばれる女性も働いていたようです。東栄町の古戸地区から推薦された、元挺身隊員の方々に、海軍工廠での仕事や空襲時の状況等をお話ししていただきました。過酷な労働環境下で強制労働をさせられていたように思いがちですが、話を聞くと、必ずしもそうではなかったようです。 空襲警報発令、だれがどうやって発令していたのか。 豊橋で石材店を営む筧さん。お国のために戦いたくても年齢が若すぎたため、防空監視員を申し出て、監視業務を行っていたそうです。現在のような機械設備は無く、双眼鏡から見る機影とエンジン音で、敵か味方かを識別、敵機なら、何機がどの方向に飛んでいるかを逐次、本部に電話で報告、これをもとに、空襲警報が発令されていたようです。 丸山 正志 |
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